パンタ・レイ -自分を求めて歩く旅-

   プロローグ

 あたし時々、自分が何をやっているのか、わからなくなる。
 あたしの夢は、何なのか。
 一体、何がしたいのか。

     1.

 彼の笑顔を見ることができなくなって半年。みんながもう、彼のことを忘れてしまったように、それぞれの生活を、それぞれなりに過ごしている中で、あたしひとりだけが取り残されていた。
 大切な人。
 何よりも、誰よりも。どんなことよりも。
 あたし、彼と離れ離れになってしまうなんて思ってもみなかった。
 ずっと幸せが続くと思ってた。たとえどんなに辛いことがあっても、彼さえそばにいてくれれば幸せだったから。
 だけど、神様はいじわるだ。あたしから、その幸せを、夢を、15年目にしてやっと手にすることができたものを奪ってしまった。

 彼が近くにいない今、あたしは一体どうすればいいのか。
 今、この場に彼がいて、こんなあたしのことを見ていたなら、きっとこう言うだろう。

「また、元に戻ってしまったの?」
 …って。
 あたしだってわかってる。このままじゃいけないこと。
 だけど、どうしようもないんだもの。あたし今、あの時みたいに楽しくない。
 毎日、何事もなくて、みんなしてくだらないこと言って、笑ってればいい。これって一般的には楽しいって言うのかもしれない、いろんなことがありすぎた、あの時よりも。
 だけど、何かが違う。本当に楽しいって思えない。心の底から笑えない。
 理由はきっと、若月くんがいないから。支えてくれる人が、いないから。

「もーえーちゃんっっ」
 …う…
「うああああああああああっっっ!!」
 …あ。
 あ?
「こっちがびっくりしたよ。」
 彼女は、ほうっと小さくため息をつきながら言った。
 すみませんね、どうせオーバーリアクションです……でもでもっっ、人が真面目に机に座ってもの思いに耽ってるときに、肩に手ぇのっけて耳元でばかでかい声で話しかけたりすんのが悪いんだいっ!
 …なんて直接は言えないけど。
「で、何か用事でもあった?」
 あたしは言った後、少し後悔した。思いっきり冷たく言っちゃった…
「別になんでもないけどさ、萌ってなんだか急におとなしくなったり、存在感薄くなったりするじゃない? そーゆー時の萌、消えていなくなっちゃいそーで、なんか怖い。みんなも心配してるよ」
「…………………………」
 なんか、少しだけ嬉しかった。あたしの心配してくれてることが。
 そうだね、あたし少し過去にこだわりすぎてる所がある。それでよく考え事しちゃったりするから、みんなに心配かけちゃってたんだよね。
 ちょっとだけ、対人運の良さに感動した。

 この、浮瀬という変な名前の高校に入って二ヶ月半、もうすぐあたし、有沢萌は十六歳の誕生日を迎える。
 6月20日生まれのあたし。そのせいで誕生日はいーっつも雨。そんなんじゃあ嬉しさも半減しちゃう。…って言ったって、ついこの間まで別に誕生日なんて気にも止めてなかったけどさ。
 今年もきっと雨だろうなぁ…つい最近梅雨入りしたみたいで雨ばっかり降ってる。しとしと…ゆっくりゆっくり一ヶ月以上もかけて夏の準備をする。
 同じ量降るんだったら、もっとこう、いっぺんにだーっっと降ってくれちゃえば簡単なのに……
「ほーら、また。それ、あんたの癖だね」
 また一人でぼーっとしてしまっていたあたしにそう言ってきた彼女。
「ごめん。でも今はちょっとだけ一人にしておいて欲しい」
 あたしはそう言った。
「そう? じゃあ、それが終わったらいつもの所、絶対来てよ、まってるからさ」
「うん」
 彼女の名前は片野さえりという。見た目、小学生みたいですごく可愛いんだけどその実すごくしっかりしてる。…あたし最近、さえりに頼りきりになってる。
 さえりは、高校に入ってはじめてできた友達。理由はかんたん。オリエンテーションで学校に来た時、ちょうど隣の席だったの。それでちょっとしゃべって、そのまま現在に至るという感じ。他にも友達いっぱいできた。
 その子たちはあたしのことをこんな風に言う。
「あんたいい味出してるよ」って。
 そーかなぁー…そーなのかなぁ……。昔あたしが求めてた自分らしさってこれなのかなぁ? だいたい、いい味出してるってどーいうことなのかなぁ?

 …あたし…前はどういう人だったんだっけ…
 少しだけ、過去を探ってみようと思う。

 一年ちょっと前の春、あたしは少し冷めた目で世間を見ていた。桜吹雪の中、浮かれて歩いて、クラスが一緒になっただの別れただのと騒いでいる人たちを見下していた。あたしは、うわべだけの友達なんていらないと。
 確かに、今でもそう思っている。だけど、それによって行なっていることが違うんだ。
 当時のあたしはうわべだけの友達なんていらないから作ろうとしなかった。本当の友情が存在することを知らなかったから。
 でも、その後3月までの12ヶ月間で、あたしは色々なことを教わった。本当の友達、分かり合える人はいるんだということ。どんなに心が通じ合って、信じあっていて仲良しで、ずっと一緒にいたいと思っても、別れなければならない時は来ること。友達と出会い、別れを繰り返していくうちに、本当の友達が出来てくるということ。本当に、たくさんのことを教わった。
 嬉しいことも、悲しい事も、人を思う気持ちも…。あたしが世の中から逃げてしまっていて知らなかった3年分、すべて(小学校の頃に色々あって、それから3年間、一番大切な時期を逃しちゃったな…)。
 まぁ、やっぱりあたしは周りの人より随分未熟なんだと思う。みんな内心どう思っているかはわからないけど、外から見ると元気にしている…ように見える。あたしにはそれができないんだ。
 悲しい物は悲しい。すぐに落ち込んでしまう。すぐに態度に出してしまう。だから結果的に周りまでも巻き込んで、雰囲気を暗くしてしまう。
 本当はわかってるんだ。そうじゃいけないこと。悩みや心の傷を抱えているのはあたしだけじゃないってこと。
 でも、できない。あたしには明るさを保っていることなんて…
 若月くんという人を失ったことは大きかった。自分よりも大切な人だったから。
 本当は、一緒に通うはずだったこの高校に入った時、あたしはひとつの決心をした。「いろんな人の走る姿を見る」って。若月くんはマラソンランナーになることが夢だったから。実際ここは陸上が盛んだったし、あたしもそれを見ていられるようなことをするつもりだった。
 …できなかったんだけどね。
 入学したての頃、さえりと部活見学をしてまわったことがあった。もちろん陸上部にも行った。本当は、陸上部のマネージャーになるつもりでいたから。
 だけど、どうしても若月くんの走る姿が目の前にちらついて、あの時のことを鮮明に思い出してしまって、情けないことに泣いてしまったんだ。その場で。
 それにきづいたさえりが、騒ぎにならないうちにそっとあたしを連れ出してくれた。連れていってくれた場所は、あたしが散々通った思い出の海岸だった。

 高校から山を挟んで海岸沿いを行くとすぐのところにあたしの通っていた中学がある。近いって行っても2キロは離れているんだけど。
 中学から高校に来るのは、この海岸沿いが一番近い。
 道の左側が海、右側が住宅街。そしてしばらく歩くと右側に山が現れ、その山に登っていく少し急な坂道がある。
 その道は、山の麓のほうをぐるっと上り、そしてまた下る。その目の前に今通っている高校がある。
 だから、学校からは大好きな海を眺めることはできない。

 毎日登山をして学校に通わなければいけない人は、崩しちゃえばいいのにって言ったりもしている。あたしは、海が見えないのは悲しいけれど、そこまでは思わないのは、通学方向が違うからかもしれない。。
 あたしは山のない方向から通ってる。だけど、山道を通ってる子もいて、いつもグチってる。「通学なのか山登りなのかわからない」って。
 『山登り』ってのはオーバーだと思うけど、実際結構急だもんね、あそこの道。
 山登りって感じはほとんどないんだけどなぁ、どうしてみんなあそこが好きじゃないんだろう。
 あたしは大好き。途中がすごく気持ちいいの。すごく見晴らしがいいんだよ。
 山のすぐ左側に海でしょ? 満潮の時なんか、海岸がなくなっちゃって、道の下がすぐ海になるの。
 少し高くなった道の側面に、波が打ち付けられる。時々、水しぶきなんかもちょっとだけかかったりする。
 あと、ところどころに橋がある別に川があるわけでもないし(らしき線はあるんだけど、途中で終わってるしどう見ても海岸なのよね)最初はわからなかったんだけど、時間によってその下は海になるの。
 感動だった、そして少しだけ怖かった。だって、足の下にはもう海があるんだよ。川とはやっぱりどこか違う気がする。
 そういうのも含めて、すごくいい所。だからあたしはあの山、崩して欲しいとは思わないな。
 それに、あの山があるからこそ、ウチの学校は運動部が強いんだと思うの。
 …ホントは若月くんもあの道を走るはずだった。

 ……さてと。
 さえりのところ、行こうっと。
 考え事してるうちに、授業が始まる2分前になっていることに気付き、急いで外へ出た。
 そしてさっき考え事をしていた、山と海の間の道を歩いて行く。

「おっ、来たね」
 さえりが言った。今来ているこの場所はだいたい5分の距離にある。
「どーも」
 あたしはそう言うと、砂浜へ降りてさえりの右側に腰を下ろした。
 ざーん…と静かな波音が響き、砂をあらってゆく。
 あたしは少しだけ視線を上げた。水平線がきらきら輝いている。
 そっか…久々に晴れたんだもん。海も、みんな嬉しいよね。

「ねぇ、そろそろ教えてくれない? あんたのこと」
「え?」
 あたしのこと…?
「ずっと前、初めてここに来たとき、部活見学に行った日のことね。あの時、あんたもあたしも、何も言わなかったけど、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない? 別に言いたくないことならいいけどさ、もしかしたらあんたがいつも考え事してんの、そのせいなんじゃないの? 悩んでるんだったら話したほうがすっきりすると思うし、あたし、萌のこと知りたいの」
「さえり…」
 あたしは、少しだけ迷った。若月くんのこと、話してしまうべきなんだろうか……別に人に言えないようなことなわけじゃない。あたしの、今まで生きてきた中で一番大切な時間をくれた人のことだもん。
「…………」
 あたしたちはしばらく黙ってしまった。波の音だけが静かに、あたしたちの心を落ち着かせてくれている。
 静かだと思い出しちゃう、中学時代のこと。
 住みこみ家庭教師が家にやってきたのが小5の夏。ちょうど、私立の初等部から近所の公立小学校に転校した頃。
 友だちを作る気にもなれなくて、一人ぼっちで寂しい思いをしていた。その寂しさを紛らすように、勉強ばかりしてたっけ。
 どっちにしてもあの家庭教師じゃあ、そうなっていただろうけど。
 あたしに勉強を教えてくれてるその人はすごく厳しい。学校から帰ったら、5分以内に勉強の準備を済ませておくこと。そのあとは夕食まで休憩なしでずっと問題を解いていなくちゃならない。そして夕食後も、またすぐに10時まで予習復習と宿題の消化。毎日が同じ事の繰り返しだった。  自由になれるのは10時から眠るまでの、ほんの数時間だけ。それだけの時間で、一体何が出来るっていうの? 毎日の生活のこと、自分のことを振り返っている暇さえなかった。
 だからよく夕方なんかに抜け出して近くの海辺に行った。
 何を考えることもなくぼーっと座っている、それだけのことが大好きだった。
 家に帰ってよく叱られたけど。母なんか、なんとかの一つ覚えみたいに(もしくは九官鳥みたいに)あたしのことを「不良だ」と言った。古風な母は一体何を想像していたのやら。
 …叱られながらも続けてたのはあたしなんだけれど。
 気持ちがいいんだ、夕方から夜に変わる頃って。
 空の色がどんどん変わっていって、それと同じように海の色も変化して。
 海岸を走っている人やサーファーもたくさんいたから、その人達をぼーっと眺めたりもしてた。あの人達もこの景色に気づいているのかなーなんて思ったりして。
 …その人達からしてみたらあたしって変な人だったのかもしれない。一度だけ、あたしのことを自殺だと思い込んじゃった人がいて、長々と説教されちゃったこともあったな。
 正直言って笑えなかったけどね。ホントに、しちゃってもいいかなーなんて思ってたし。
 でもまぁ、今となっては死んじゃわなくてよかったと思うけど。いい思い出もろくにないまま終わってたらきっと死にきれなかった(大体、あたしには自殺するほどの勇気なんて無かったと思う。そういうことが出来るのはきっと、勇気があって意志の強い人なんだと思うの)
 それから、海での思い出はそれだけじゃない。
 若月くんと初めて話したのも、ここだった。

「ふ────…」
 さえりが大きなため息をついた。
「帰ろっか。黙ってるんだったらここにいても仕方ないし。あーあ、今日は萌えの話、いろいろ聞けると思ったんだけどなぁ…」
 そう言いながら立ち上がったさえりを見て、あたしの胸は、少しずきんとした。
 あたしたちは、お互いのことを何も知らない。いちばん近くにいるのに。
「……わかった。話すから、座って? その代わりさえりも自分のこと、ちゃんと話してね」
「あたしに、隠すような過去はないよ。みんなと話してる、中学時代の思い出があたしのすべて。萌はそれを信じてはくれない?」
 さえりは、そう言いながら座った。にこやかだけど、真面目な顔であたしを見てる。
「わかった。じゃあ話すけど、これはあたしの…あたしたちの大切な思い出なの」
 あたしがそう言うと、さえりは黙ってこくんと頷いた。

「あたしには中3の時に半年だけ、付き合ってる人がいたの」
 そう切り出し、あたしは若月くんとのことを中心に中3の時の1年間を振り返りつつ、さえりに話した。
 この海岸で、初めて若月くんといっぱい話をして、その時に告白されたこと。その時のあたしはそんな気持ち全然なくて、返事が出来なかったこと。
 足を怪我したとき(10針も縫った)、おぶって保健室まで運んでくれたこと。
 若月くんへの気持ちを自覚したとき、同じ気持ちでいる子が他にもいて、その子を含むクラスメイト数人に呼び出されたこと。
 そのせいで若月くんを避けるようになったあたしを最初に怒ったのは、若月くんだったこと(あれはきっとあたしが暗くしてたのが許せなかったのよね。だって若月くんはあたしが呼び出されたこと、知らなかったはずだもの)そして、クラス全員公認のもと(HR中だった)両思いになることができたってこと。
「いい話じゃない」
 さえりは少し呆れた調子でそう言った。
「まぁね」
「それでさ、その若月くんって人のことと、部活見学の日のこととは何の関係があるのよ? ただののろけ話だったら怒るよ、あたし」
 海のほうを向いて、髪をたなびかせるさえり。あたしにはなぜか、その姿がいつもより大人っぽく映った。
「若月くん、長距離走るのが夢だった。マラソンでオリンピックに出るのが夢だって言ってた」
「そんなに速かったの?」
「うん」
「わかった! その推薦かなにかで遠くの学校に行っちゃったんでしょ? それで」
 …それなら、まだ……
「まぁ、同じようなものね。その場所ってのが……遠い遠いお空だけど」
「え…?」
 さえりの顔色が変わった。
「そ、死んじゃったんだ。半年前にね」
「なんで…? 事故…とか…?」
「ちがうよ、病気。本当はあんまり運動とかしちゃいけなかったんだって。だけどやっぱり夢を諦めることはできなくて…」
 …夢、かぁ。
 あたしの心に重くのしかかってきた。
 さえりは、何も言わなかった
「あたしね、その時に思ったの。若月くんの目指していたものは、いったいどこに行っちゃうんだろう? って。それを考えてると、何もする気にれなかった。毎日、ベッドの上で考えてた。ただひたすら」
 あの時はあたしひとりだけが別の世界に入っちゃったみたいだった。
「でもね、若月くんのお父さまが、わざわざ家に来てくださったのよ。あたし宛ての手紙を見つけて、学校に電話したらしばらく来てないって言われたらしくてね。心配してくれたのかな」
「手紙?」
「そう。若月くんには、自分がいなくなった後のあたしのことは、お見通しだったみたい。自分が苦しい時に、わざわざあたしを励ますための手紙を書いてくれたってこと、すごく嬉しかった。それで、この学校にも来る決心がついたのよ」
 忘れない。あの手紙。今でもちゃんと引き出しの中の大切なものを入れる場所に入ってる。
「この学校も、関係あるの?」
「あたし、全寮制の女子高に行くはずだったの。母の夢。だけど、あたしはどうしても若月くんと一緒にここに来たかった。もちろん反対されたけど、若月くんがあたしを助けてくれた。なのに、若月くんはもういなくなっちゃった。どうしようか迷ったの。もう、学校なんて行きたくなかったし」
「それを手紙が変えてくれた…?」
「そういうこと」
 あたしは立ち上がってスカートをぱんぱんと叩いた。
 結局、何も変わってないのかもしれないな。きっとあたしは一生、人の夢についていくことしかできないんだね。自分の夢を持つことなんて、きっと出来やしない。
 なにか、自分でやりたいって思えることみつけなきゃ。ずっとこんな調子じゃあ駄目だよね。
「あたしさぁ、人を好きになったことさえないけど…」
 海の方向を眺めながら、ひとつひとつゆっくり話すさえり。
 あたしは立ち上がったまま、さえりを見ていた。
「やっぱり、人っていろいろだよね。同じ年数生きてても、経験の量ってそれそれだものね」
「うん……」
 みんな、同じじゃないから…だから人を好きになる。憧れる。その逆もある。
「帰ろっか」
 さえりは立ち上がって、砂を払うとにこっと笑った。
 その笑顔が少しだけ寂しそうで、あたしはすこしだけ、不安になった。
 もしかしたらさえりも、大きな傷を背負っているんじゃないか…って。

 だってあたし
 さえりのこと、全然知らないよ─…