プロローグ

「申し訳ないのですが、うちの息子に関わるのは今後一切やめてもらえないだろうか」

 そんな突然の一言にわたしは頭が真っ白になった。
「受験の大事な時期なんです。あの子の将来を心配しています。親だったら当然です」
「そ……そうですか」
 どうしよう…わたしのお腹にはもうすぐ5ヶ月にもなる赤ちゃんがいるのに、両親にも話せない。唯一相談できたのは彼氏だけだった。
 彼氏は、難しい顔をして「ちょっと考えさせて欲しい」と言って、家に帰った。
 わたしも同じように家に帰った。家には誰もいなかった。午後八時半、母は町内会の会合があるから遅くなると、今朝言われていたのを思い出した。
 母が作っておいてくれた夕食を食べて、部屋に戻ろうとしたところで、玄関のチャイムが鳴った。
 後から考えれば、あの時玄関を開けなければよかったのだ。玄関を開けるとそこには彼の両親が立っていた。
 そして口を開くなり「交際をやめてくれ」ときた。
「で、でもわたしはいま、に…妊娠していますし……本人がいないところで急にそんな話をされても……」
 わたしがしどろもどろにそう言うと、彼のお母さんの怒りのスイッチが入ったような音が聞こえるたような気がした。パチンと。
 彼のお母さんは最初こそ冷静に話をしていたが、徐々に声も大きくなり話すことも支離滅裂になった。散々怒鳴り散らした挙句、紙幣をぞんざいにつめこんだ紙袋を置いて帰ってしまった。
 最後に、
「お金ならいくらでもあげる。でも認知はさせません」
 そう言った。あの言葉が頭のなかでリフレインして今でも出て行かない───

 親には知られたくなかった。
 わたしはさっき押し付けられたお金の入った紙袋と少しの着替えをボストンバッグに詰め込んで、翌朝早く家を出た。親がまだ起きてくる前にそっと玄関をあけて、鍵をかける。帰ってくるつもりはなかったので使った鍵はドアポストに放り込んだ。最寄りの駅までは徒歩十五分。始発に乗り込んで夕方にやっと都心の駅についた。適当なファーストフード店で食事をして時間を潰したあと、そこから更に適当な夜行バスに乗り込んだ。
 バスの中では、嫌なことを思い出したくなくてひたすら眠った。不思議と寂しくはなかった。ひとりではないと思えた。
 バスを降りたら朝になっており、そこは一面の銀世界だった。どこかの寒い地方の大きな駅前。
 都会では暮らしたくなかったので、なるべくローカルそうな線に乗ろうと探し歩いた。大きなターミナル駅の外周を彷徨い歩いていると、少し離れたところに驚くほど古くて人気のあまりないちいさな改札口があった。
 次の電車が来るのは三十五分後。改札を抜けてホーム出ると木造の待合所があったので中に入った。そこにはわたし以外の誰もおらず、ストーブがあったが、使っていいかどうかわからなかったので点けなかった。風がしのげただけでわたしには贅沢すぎると感じた。そして、やってきた単行列車に乗り込んだ。中には座席がちょうど埋まるくらいの乗客が居て、案外乗っているもんだなぁとぼんやり思った。
 高い建物ばかりの街並みは、駅周辺を抜けてすぐに平屋の住宅地へと変わった。そして、川を一本二本と渡るたびに人家も減り、山が近くなってきたように感じた。いつの間にか乗客もわたしひとりになっていた。
 無人駅で、周囲には数件ほどしか家のない景色をみつけて、わたしはそこの駅に降りた。
 駅は無人だが、切符を買ったり乗り越し料金を払ったりするのは近所の家の人が請け負ってやっているらしいことがわかったので、乗り越し料金を支払いにそのお宅へ行った。

「すみませーん……」
 インターホンが見当たらなかったので引き戸の玄関をガラガラと少しだけ開けて声をかける。
「どなたー?」
 中から声がした。
「あ、あのっ、電車のっ…乗り越し料金を……」
「あーはいはい。悪いんだけども中に入ってきてくれるかしら。玄関上がって左側だから」
「…は、はい。」
 おじゃましまーす…とそろりそろりと靴を脱いで上がらせてもらった。声の主はこたつに入ってみかんを食べながらテレビを見ていた。おばあちゃんだった。
「どこからきたんだい?」
「あ、あのA駅からいちばん安い切符を買ってここまで…」
「あらーそれはまぁ遠くからご苦労なことだねぇ、千八十円だね。」
 と、おばあさんはそろばんを弾きながら言った。私はお財布から千八十円ちょうどをおばあちゃんに手渡した。
「はい、どうも。わざわざ上がってもらっちゃって悪かったねぇ。時間あるならお茶飲んでいきなさいな。みかんも食べてね。お茶菓子もあるよ」
そう言って、おばあさんは私にお茶を入れてくれて、私の近くにお茶菓子とみかんを寄せてきた。
「いえ、あの…電車料金を払いに来ただけですし、そんな…」
 困っているのが目に見えてわかったのだろう、おばあさんは「いいんだよう」と言った。
「うちはもうばーちゃんひとりしか住んでないしなぁ、人が来てもてなすのはばーちゃんがすきでやってることなんだから」
 そうして、断る言葉を失ってしまったわたしは、お茶をいただくことにした。
 おばあさんは特別話しかけてくるわけでもなし、相変わらずテレビをつけたままだが、お茶を飲む私の方を向いてにっこりと微笑んでいる。

「あの……このあたりに不動産屋さんってありませんか?」
 沈黙に耐えられなくなったわたしが最初に発したのはこんな言葉だった。
 おばあさんはびっくり顔で
「あんた、未成年じゃないのかい? 住む家をさがしたりなんかしないで家に帰らんといかんよ」
 と冷静に諭された。
「実は、親はいないんです。住むところもなくて…」
 嘘だった。家に強制連行されるのが嫌だった。妊娠のことがわかってしまうことが怖かった。
「そーかい。不動産屋はないけど、アパート経営してる大家なら知ってるよ。ばーちゃんちょっと膝が悪くてな、行くの大変だから電話して来てもらうよ。それまであんたも上がってお茶でも飲んでいき」
 そう言うとおばあさんは膝をさすりながら家の奥に消えた。
 わたしは上がらせてもらって、玄関の横のこたつの部屋で待たせてもらった。
 しばらくするとおばあさんは私にお茶を注ぎ足してくれた。
「ほら、こたつ点いてるんだから正座してないでちゃんとお入りなさい。妊婦さんがそんな短いスカート穿いて冷やしたらどうするんだい」
 ぎくっ、とした。
「妊婦だってわかりますか…?」
「そりゃ、ばーちゃんは6人も子供こさえてるんだから、身ごもってる人なんかひと目見たらわかるよ」
 そう言ってカラカラカラと、笑った。
 そうこうしてるうちに、五十がらみの男性が来た。この村で唯一アパート経営してるもんだと紹介された。
「しかしあんた未成年だろう? 家出の子供に貸す部屋はないよ」
「いえ…両親はいないんです。お金持たされて追い出されてしまって……行くところがなくて、知らない場所に行こうと思って…ここに」
「そーかい、でもなぁ…保証人もなんも居ないんじゃなぁ」
「あのっ…お金ならあるんです。延滞もしませんからお願い…します…」
 大家さんのおじさんは困った顔をする。
 しばらく悩んで出た結論はこうだった。
「うちのアパートはもう築四十年も経ってるオンボロだ。六部屋あるが、今はもう誰も住んじゃいねぇ。入ってくれるってんならありがたいがな」
「じゃあ…」
「条件をふたつ出させてもらうよ。ひとつめは、このばーさんの話を聞きに天気のいい日はこの家に通うこと。ふたつめは、もし親戚か誰かが捜索願を出してることがわかったら顔を出しに行く。話し合いによっちゃそっちの世話になること」
「はい」
「じゃあ、ばーちゃんからも条件をつけるよ。今すぐこの野郎の車に乗っけてもらって産婦人科に行くことだね。今は産婆さんもおらんから病院のお世話にならずに出産は出来ないと思ったほうがいい」
 ふたつの条件を飲み、わたしはありがたいことにこの村で新しい生活を始めることが出来た。
 その日はいいつけ通りに産婦人科で診察を受けた、その後保健所にいって母子手帳をもらった。お腹の子供は元気に育っているようだったが、なんで病院にかかるのがこんなに遅いのか、ちょっとだけ叱られた。
 その後、アパートに連れていってもらったのだけれど、よくある木造の古いアパートだった。
 比較的綺麗な二階の角部屋を割り当ててくれた。玄関から入るとすぐに二畳ほどの台所。台所の左手には木製のドアがあって、そこが水洗の和式トイレ。台所を抜けると四畳半の和室があった。窓の外には小さいけれどベランダもある。お風呂は一階に共用のものがあるそうだ。
 この部屋は元々大家さんのおじいさんが住んでいた部屋だそうで、家財道具一式が置きっぱなしになっており、好きに使って構わないとのことだった。

 布団は定期的に干してあったようだし、部屋もホコリが溜まったりはしていなかった。
 わたしはその昭和に戻ったみたいな畳の部屋に布団を敷いて、眠った。
 翌日、元々住んでいた街の市役所に郵送で転出届の手続きをした。1週間ほどしたら書類が届いたので、村役場に転入届を出した。

 その後は、昼は駅前のおばあさんの家に行き、家事を手伝ったりしながら出産までの日々を過ごした。
 紙袋に詰まっていたお金は、通帳を作ってそれに入れたら結構な額があった。
 あんな人から渡されたお金だと思うと使いたくはなかったけれど、身重で働き口もなく、のたれ死ぬことを回避できたという点では感謝した。

         ☆

 年が明けて少し経った頃のことだ。もうじき春がやってくるとは思えないほどに、その日も相変わらず窓の外は吹雪いていた。
 そんな日に、娘が生まれた。
 生まれてきた赤ん坊は普通より少し小さかったが、健康なようだった。出生直後のどどめ色が落ち着くと、肌の色は透き通るような白い色になった。
 雪が窓に叩きつけられている。そんな深夜だった。

 わたしは娘に『吹雪』と名前をつけた。

 吹雪はよく泣き、よく笑った。だというのに、私の心は晴れなかった。
 それどころか吹雪が笑うたび、泣くたびに、わたしの心は凍りついていくように感じた。
 『わたしは、雪女を産んでしまったのではないか……』そんなくだらない思いが頭から離れなかった。
 母乳を飲ませるたび、わたしの中の暖かいものは娘に注がれ、わたし自身は凍ってカサカサになっていく感じがした。
 わたしが萎んで乾いていくのとは対照的に、娘は日々大きくツヤツヤになっていく。

 どうしてか、お腹を痛めて産んだ娘を可愛いとは思えなかった。
 ただひたすら、わたしが面倒を見ないと死んでしまうという強迫観念にも似た何かに追われながら育児をするしかなかった。
 もしも「娘を愛せない」と口に出してしまったら、駅前のおばあさんも、大家さんも、近所の人皆がわたしとは挨拶すらしてくれなくなるんじゃないか……そう思うと怖かった。もしもこの子を見放して逃げても絶対に足がついてしまうに違いない。逮捕はされたくなかった。

 そんな葛藤がありながらも決して口にだすことはせず、周りの人に助けられて吹雪は育っていった。けれどひとつ問題があって、体に異常はないらしいのだが、生まれて一年が経過しようとする頃になっても吹雪はいまだに言葉を話すことが出来ずにいた。

 吹雪の一歳の誕生日の前日、母から手紙が届いた。
 それを見た途端、最初の大家さんの言葉を思い出した。

『もし親戚か誰かが捜索願を出してることがわかったら顔を出しに行く。話し合いによっちゃそっちの世話になること』

 わたしは怖くなってその日のうちに荷持をまとめて飛び出した。
 今度は南へ───

 北極星へは遠くなるが致し方ない。